昭和100年と言われる今年、様々なところで昔を振り返る機会が増えています。軽井沢の100年前はどうだったのでしょうか。当時の様子を紐解いてみましょう。野原が続く風景当時の軽井沢は、今のような木々に包まれた姿からは想像できない風景だったといわれています。昔の軽井沢の写真を見ると、木がほとんどなく、草原が広がっていました。浅間山と離山以外、遮るものがほとんどなく、遥か遠くまで見渡せるほど。大正時代に起きた関東大震災の際は、野沢原のあたりからでも東京の火災の様子が見えたそうです。木がない風景には原因がありました。軽井沢は、もともとは木々が覆い茂った森だったと考えられています。昭和50年の溶岩樹型の調査では、直径50〜200cm、長さは7mにも及ぶ木の幹の跡が多数発見され、大木や高木が自生していたことが分かりました※ではなぜ、軽井沢は木がほとんどない草原になったのでしょうか。その原因は1783年に起きた浅間山の大噴火。5月9日に噴火が始まり、3か月間、噴煙活動が続きました。さらに8月5日に大噴火が起き、流れ出した溶岩で浅間山麓の森林はあっという間に炎上し、軽井沢の植物のほとんどが焼滅したと言われています。木々が焼けて荒れ果てた土地に、風などで運ばれた種が芽を出し、徐々に草花が生えていきます。こうして大噴火から100年ほど経って、軽井沢の焼け野原は草原へと姿を変えていきました。文化が薫る100年前の軽井沢100年前の街の様子はどうだったでしょうか。軽井沢は当時、すでに1000戸超の別荘が立ち並び、5,000人以上の外国人避暑客や上流階級の日本人らが集まり、賑わいを見せていました。1920年に軽井沢ゴルフ倶楽部が創設され、1922年には軽井沢集会堂が完成するなど、軽井沢ではコミュニティが形成され、スポーツや音楽を通じたサロン文化が花開いていました。1924年には芥川龍之介、室生犀星、堀辰雄らが軽井沢に滞在し、文豪らの交流も深められていきました。プリンス通りが完成し、飛行場も1927年、当時は軽井沢で車を所有していたのは三井家と徳川家の2台だけでしたが、南軽井沢に幅36mの二十間道路が完成しました。これは現在のプリンス通りです。南軽井沢には馬越飛行場が造られ、東京―軽井沢間を往復する定期便も運航されていました。100年以上続く老舗当時から避暑客らのニーズに応えてきた宿屋やお店には、今も営業し続けている老舗がいくつもあります。外国人避暑客に愛された万平ホテル、文豪の定宿となったつるや旅館、軽井沢彫の大坂屋、歴史を記録し続けた土屋写真店、外国人避暑客の靴を手掛けたことから始まったサトウシューズ、蕎麦の名店かぎもとやなどがあります。当時の風景からは様変わりした軽井沢ですが、プリンス通りや老舗店など、100年の歴史を感じられるスポットがまだまだ残されています。そんな歴史深い軽井沢で、長く別荘ライフを楽しんでいただきたいと、ZEORESORTでは初期保証20年、最大延長60年の長期間にわたり建物を保証。(詳しくはこちら)軽井沢の歴史と共に、リゾートライフをじっくりとお楽しみください。※溶岩樹型は高温の溶岩が樹木を取り囲み、溶岩が冷えて固まると、燃焼した木の幹の跡が穴となって残ったもの。その穴の大きさや長さで、焼失した樹木の太さや高さが分かるというものです。